2007年08月09日

ほんの数時間



「ありがとうございます」と、受話器越しに僕。
「はい」、というだけのあっさりした返事。

数日たって、約束の日。
その日は、太陽の光と肌の間に何もないような日差しの日で、
僕は黒いスーツの中身をびしょびしょにしながらその場所に着いた。

古めかしい洋館の玄関。
その女性は、黒っぽいポロシャツと白いデニムのタイトスカート。
少し青みがかった瞳が印象的だ。美人、なのだろう。
僕が大げさに「よろしくお願いします」と言うとやはり事務的に「はい」と答えた。

営業の仕事の中には「立ち会い」と呼ばれるものがある。
自社イベントなどのとき、担当者として現場にいるという業務。
様々な関係者の顔つなぎ以外にやることはほとんどなく、
それでもいないと困る・・そんな感じ。

「もう長いんですか? そうですか」

待ち時間、僕が何度か話しかけ、彼女が短く答える。
彼女のポートレートの背景に洋館の太い円柱が見える。
こういう場面の社交辞令は何だかぎこちない空気もともなうけれど、
そういう会話に助けられることも多い、そんなことを知る年齢に僕はなっている。
そして、そういう会話をしながら、ちょっとでも会話の奥に入っていこうとしている自分に気付く。
そう。
僕は彼女に興味を持ったのだろう。

**

空気を破ったのは、彼女の方だった。
二人で建物の裏まで物を取りに行く途中のこと。

「あっちぃぃぃ」

照り返すアスファルトを歩きながら、彼女がつぶやいた。
手で日さしをしながら。
「あっちぃね」と僕は答えた。

涼しい建物の中に入り、ようやく人心地がつくと、
ビリーズ・ブートキャンプの話になった。
彼女、母親、妹。三人で並んでやっているという。
メニューの一つの動作を見せてくれるのがうれしくって、
僕は「あームリだ。俺、お腹ぶるぶるのベルトにする」と言った。
彼女は大きな口を開けて笑ったあと
「ダメです。やせるのに苦労したという思いが、リバウンドを防ぐんです」
と真面目顔。

僕ははじめ「大人の会話」をしなくちゃと思っていたのだろう。仕事で来ているし。
でも今しているのは、そのイメージの「大人の会話」ではないし、
かといって「子どもの会話」でもない。
その空気がちょうど良くって、もし制約がなかったら
そのまま彼女をお茶に誘っていただろう、と思う。

**

僕の目に、急に部屋にある一つの窓が飛び込んできた。
小さな丸い窓の形と、そこに装飾された幾何学模様が、
外の景色を切り取っていた。
部屋は暗く、外はギラギラの日差しなので、
その景色はまるで漆黒の上品な額縁を施した絵画のように見える。
僕はその窓に吸い寄せられるように近づいていった。

「この窓、きれいですね」
「でしょ。自慢の窓なんです」

近くに寄った分、景色は広がりを持った。
まだみずみずしい緑色の柳や、アイスクリーム屋のカラフルな傘が見える。
僕は我慢できなってしまった。

「写真撮ってもいいですか」

**

ほんの数時間、一緒にいただけだった。
もう彼女と会うこともないだろう。
それなのに。
「ありがとう」に「はい」と答えていた人。
それなのに。

そのほんの数時間が
僕には、今年の夏のストーリーになった。
そして、今年の夏の一枚が残った。


美術館の窓




posted by 白井麒麟 at 01:51| 東京 ☁| Comment(3) | あしもとの小さな音 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。
偶然にこちらにたどりつき読ませていただきました。
不思議な魅力のあるブログですね。
ああこの感じ・・・わ・か・る
って思いました。
Posted by みかん at 2007年08月09日 11:10
はじめまして。
6月にスタートしましたが
みかんさんが初コメントです(^^)
またいらしてください。

Posted by 白井麒麟 at 2007年08月09日 22:26
麒麟さんこんばんわ。
麒麟さんのブログに出会いブログを作る決心がやっとついたのです。
初心者ということもあって腰が重かったのですがやっと・・あがりました
ゆっくりやって行きますので、もしよかったらたまに見に来てくださいね。(*^_^*)
Posted by みかん at 2007年08月12日 00:42
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