2007年08月31日

サムズアップ


起動したばかりの頭でリビングに出る。
ソファに寝転ぶ息子。片手におもちゃの電車、片手は口に突っ込んでいる。指を吸うチュウチュウという音。よかった、生きてる。

「もう、つらかったんよ。何回も泣いて起こすんだから‥」
「熱は?」と僕。

三十八度六分、と妻は言いながらトーストの焼け具合を確かめている。

キッチンの換気扇。
白い煙を吸い込んでいく。
僕が吐き出した煙は部屋をふわふわと漂うこともなく、出した瞬間に騒音を立てる穴に集約されていく。そんなことを不満に思うくらい、僕の起動はノロく、鈍い。

『テイケツアツのせいだ』。

そうだ。よく考えれば分かるじゃないか。
寝起きがつらいのも、会社に行かなきゃいけないのも、エロいネットサーフィンにハマりそうな勢いなのも、みんなみんな、テイケツアツのせいだ。
僕はこの世のどこかにいる悪の権化テイケツアツをイメージしながら、そいつをにらみつける。


びゃーんっ


息子が、かばんを肩からぶら下げた妻にすがりついている。

「もう・・ママ遅刻しちゃうよぉ。
泣いたら、黄色い電車、買ってあげないよ‥」
「こら、そういうバーターすんなっ」

ちょっと偉そうなことを言ってみたりする。
以前だったら、するどい妻の眼力に打ち抜かれているところだが、
目下形勢は逆転している。

妻は泣き叫ぶ息子を僕に渡して、申しわけなさげな顔で「行ってきます」。

やれやれ。
渡されたわが子はひどく熱い。
肩でわんわん泣いているものだから、ワイシャツが・・。


「・・にしおかぁ、すみこだよ」

何とか気分を変えてやれないか、と思ってのことだが。

「朝からわんわん泣いているのわぁ、どこのどいつだい?」

無理らしい。

『泣いたら黄色い電車買ってあげないよ〜』
この場面でこれを言えたら俺すごい、と思ってふと笑う。


とにかくファミサポだ。

(保育園は熱のため預けられない)

連れていけば、きっと何とかしてくれる・・はずだ。
善の権化、ファミサポ。

息子に靴をはかせ、荷物を持って家を出る。

エレベーターを降りる。
何だか今日の風はやさしい、と感じる。

「ナーくん」

僕の肩でぐしゅぐしゅ言っている息子。

「ナーくん、五代雄介はこんなことじゃ泣かないよ」

五代雄介――。
もちろん仮面ライダークウガのこと。
もう何年も前のテレビだが、僕は最近でもDVDで繰り返し観ている。
もちろん三歳の息子にも押しつけている。

五代雄介は、困難なことも笑顔で乗り越える、簡単に言えばそんなキャラだ。
そして、その配役のオダギリジョーは、みんなを守ったあと、
いつもにっこりとサムズアップ、親指を立てるのだ。


「ナーくん、雄介は泣かないよね」

息子のぐしゅぐしゅが一瞬止まる。

「そうそう。その調子だよ」

息子は初めてこちらに顔を向ける。

「そうだ。ナーくん、今日バイバイする時に、サムズアップしようね。
やってごらん・・」


***


善の権化ファミサポ、つまり一時預かりしてくれる一般の民家。
スズキのおばあちゃんは本当に善の人だ。
無理を言ってすみません、と息子の靴をぬがす。

「いえいえ、いいですよ。じゃあナーくん、お父さんにイッテラッシャイって」


「イッデラッジャイ」


いつものふざけた調子で息子が言う。
ん? 何か違う。


「ナーくん、今日は違うだろ」


そう言って僕は、グッと親指を立てる。

息子は一瞬、びっくりしたような顔をしたあと、
泣きはらした目に不似合いな笑顔で
もじもじと、親指を僕に突き出した。




posted by 白井麒麟 at 13:28| 東京 🌁| Comment(0) | あしもとの小さな音 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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