2008年02月16日

見えないボタン






「最後のボタンは自分で押したんだから。しょうがねぇよな」



営業の帰り道。
会社の先輩が、吹っ切るようにつぶやく。神田周辺のビルは少し背が低いが、それでもこの季節、その影は長く伸び、風が肌寒い。

先輩の息子さん。大学受験を終えたばかりとは聞いていた。東京の、たくさんの大学を受けたのだが、今のところよい結果が出ていないらしい。長い道のりを早足で歩くリズムが先輩の口を弛ませる。



「『こっちのボタンがいいよ』って、息子の手を引いてボタンの上に乗せたんだけど・・」



推薦入試のことだ。とてもいい大学で、受験すればほぼ合格は見えていた。でも、その大学は東京ではなかった。



「『これ押した方がいいんじゃない?』って言ってるのに。すうーって手が別のボタンのところに行くんだもんなぁ。・・でも、だからといって親がボタンを押してしまったら、その子の人生は終わりだからなぁ」



**



考えてみれば、みんな目の前には、目に見えないたくさんのボタンがあるのだろう。

とっても気軽に押せるボタン。
そこにあることに気付かないボタン。
絶対押したくないボタン。
押したくても押せないボタン・・。
どれも、答えは押してみないと分からない。トランプのカードを引くように。


人生の中盤戦に入ると、押さない方がいいボタンの見分けは、かなりつくようになる。青い色をしているのか、それとも赤いのか。
一方で、押したくても押せないボタンも増えていくのだろう。
そのボタンは、虹色のように美しく見えて、でも押すのは怖い、とか、環境が押すことを許さない・・とか。
そして、やがてそのボタンの虹色は、黄色や赤に見えてくるのだろう。



**



その先輩は、ボタンを押さない人だ、と思う。
中間管理職、単身赴任、家族、持ち家、仕事の重圧、上下からの心ない言葉、内外からの厳しい評価・・。職場をともにしてからの二年の間、僕がみる限り、彼はとてもつらい環境にあった。
娘さんが大きな手術をすることになった時には、土日ごとに遠い病院に夜行バスや鈍行電車で通い詰めた。バスの中と病院のベンチで睡眠をとり、月曜日には「今帰ってきたわぁ」と疲れた表情で、数字の並ぶ紙の置かれた会議の席についた。

彼は、与えられた環境にひたすら耐えているようだった。
そして、その代わり、色んなことをした。

何もない土日にはいつも都内を自転車で走り回り、無料のクラシック演奏会をはしごした。

仕事中は、いじられキャラの後輩に、時々イタズラをしかけた。
机の引き出しに「生きた蝉」を入れておいたり
クリアファイルに「レタス」を一枚挟んでおいたり
名刺のプラスチックケースには、「海老の姿焼き」をしのばせた。
害の少ないその時限爆弾に、後輩は時々「きゃあっ」と声を上げた。


「迷うことなく、ボタンは、押さない」


四十八の、男の、家族持ちの、サラリーマンの、彼なりの生き方。
それは、ちっとも臆病には見えず。
むしろ、かっこよく思えた。



**



彼は、間もなく地元の本社に転勤する。
唯一、彼が押したボタン、それは地元への転勤希望だった。
その理由は、本人しか知らない。
そして・・
自分の意志が正しいのかどうか。
目的到達のために押すボタンは、これでよいのか。
そもそも自分が本当に希望しているものは何なのだろう・・とか。
自分自身の問題になると、さらに分からなくなるものだけれど。

こんな時は、隣にいる人のことをとても知りたくなる。
色んな経験を自分の中に修めている人の言葉を聞きたくなる。
自分の意志に耳をすますために。




posted by 白井麒麟 at 16:46| 東京 ☀| Comment(2) | あしもとの小さな音 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
つくづく 麒麟さんの文章
好きだなぁと 思います。

選ぶボタン 選ぶボタン
自分で押す 何かのボタン

.。*・゜゚
Posted by しの at 2008年02月18日 15:17
しのさん、こんばんは。

そういえば今大変なボタンもありました。

中田・・ありぁあカウスの方かぁ(*_*)


Posted by 白井麒麟 at 2008年02月18日 23:55
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